| 木床義歯の秘伝は・・・・・ |
「入れ歯師」は、親方に弟子入りして修行した後、一人前になると免許をもらい独立した。「入れ歯師」は、香具師(やし)の組織に属して店を構える者や、あちこちに出張して滞在し入れ歯づくりをおこなう者がいた。虫歯などの治療をおこなう者は、口中医や歯医者と呼ばれ、「入れ歯師」と区別されていた。 右の絵は、八王子の須田家二代目の入れ歯師松兵衛が、患者の入れ歯を調整している絵であり、秘法を守るため柱でわざと隠して描いている。人体図の掛軸を背に、彫刻刀や入れ歯の材料を前に置き、入れ歯づくりをしている様子がわかる。 |
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| 木床義歯は入れ歯師が彫った ----神奈川県歯科医師会「歯の博物館」---- |
| 木床義歯の始まりは、木の仏像を彫る職人(仏師という)や能蔓師、根付職人などが彫ったといわれている。江戸期には仏像彫刻の注文が少なくなったため、木彫技術を活かして入れ歯を彫る「入れ歯師」と呼ばれる専門職になっていった。 木床義歯は、鎌倉時代に全国的に普及し、江戸時代には独特の技法が完成した。 歯が欠けた場合には、その部分の木製の入れ歯(局部義歯という)をつくり、金属のバネを入れて隣の歯に引っかけて維持する現代のような方法も江戸時代に工夫されていた。また、前歯の裏に穴を開け、糸を帳して、隣の歯にしばって維持する方法もあった。 |
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| 入れ歯の引札(ひきふだ:ちらし広告) |
| ちらし広告は、江戸、明治時代には引札と呼ばれていた。有名な戯作者、柳亭種彦が、香具師(やし)で「入れ歯師」である竹澤藤治のために書いた「御口中一切の療治、男女御入歯細工」と刷ってある引札がある。 引札文には、「・・・・、御入歯の儀は取わけて、予が家の一子相伝、生歯、黄楊彫(つげぼり)、蝋石(ろうせき)、魚骨、御好み次第工合よく、齦(ぎん:歯肉のこと)へさはらず梅干を実とも噛み割り、なま焼のするめを縦に喰ひさくとも御随意で御一代請合細工、御値段も手軽に致候間、披仰付候やう願ふよしを主人にかわりて、木に竹澤を次たる不文は」とある。 明治23年に発刊された『東京買物独案内』(かいものひとりあんない)には、入れ歯師や歯の治療所の広告が12も出ている。明治20年代は、まだ和式と西洋式の入れ歯が新旧混在していたのだろう。
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