公衆衛生委員会便り





 酸取扱い現場における歯の健康管理   VOL.1301   

 職業性疾病としての歯科疾病
 職業性疾病とは、職業に従事することによって引き起こされる健康障害のこと
です。職業性疾病には災害性疾病と職業病があります。災害性疾病は一時的に
有害要因に暴露されることによって起こり、具体的には外傷、腰痛、火傷など
です。職業病は有害要因に長期にわたり慢性的に暴露されることによって起こ
り、中毒、職業癌、アレルギーなどです。
歯科領域の職業性疾病にも災害性疾病と職業病があり、災害性疾病の代表は歯
の外傷であり、職業病の代表が今回説明する歯牙酸蝕症です。

 歯牙酸蝕症と歯科医師

 口腔領域に症状をあらわす職業性疾病は多くありますが、酸によって引き起こ
される歯牙酸蝕症は法的に歯科医師がかかわることが定められている主な職業
性疾病であり、歴史的にも発見から原因解明、治療まで歯科医師が中心となっ
てかかわってきました。また、酸は製造業における基本的な使用物質であり多
くの事業所で広く用いられていることなどから、地域における一般の開業歯科
医であっても、歯牙酸蝕症の問題にかかわる機会が多くあります。

 歯牙酸蝕症とは


 歯科疾病の代表はう蝕(むし歯)と歯周疾患です。う蝕は食物中の糖分が口の
中の細菌によって酸に変化し、歯を溶かすことで発生します。歯牙酸蝕症は細
菌が直接的に関与することなく酸の化学作用によって歯が腐食ないし実質欠損
を来たして発生します。この酸の由来は、職業的には作業環境中に発生した酸
のガス、蒸気、ミストなどですが、非職業的にはレモンなどの柑橘類や酸性飲
料の多食、胃腸疾患による胃酸の逆流などが原因となることもあります。なお、
わが国では職業性に発生したものだけを歯牙酸蝕症と称して非職業性のものと
区別することがあります。しかし、国際的には職業性、非職業性を区別しない
でDental erosionという言葉を用いることが多いので、外国の文献などでは注意
が必要です。
                               
 歯牙融蝕症の発生しやすい職場

 酸を使用する多くの業務において歯牙酸蝕症の発生が指摘されています。わが
国では古くから、メッキ、バッテリー(蓄電池)、肥料、染料、化学繊維、火薬、
酸製造、硫黄鉱山などの産業において歯牙酸蝕症の発生が報告がされています。
職種としては特にバッテリー製造、メッキ産業における発生の報告が多くみら
れます。これらの産業において歯牙酸蝕症が発生しやすいものと思われますが、
一方このことは、他の職種で歯牙酸蝕症の発生がないことを意味するものでは
ありません。酸の種類や量、使用形態はさまざまで、工程の中で酸を使用して
いる職場は多いことから、歯牙酸蝕症の発生の可能性は他の多くの職場にも存
在しています。
 残念なことに、わが国の歯牙酸蝕症の発生報告のほとんどは個々の事例報告で
あり、いろいろな職種について統合的に歯牙酸蝕症の発生状況を調査した資料
は残念ながらまだありません。歯牙酸蝕症は、バッテリー、メッキにかぎらず、
酸あるいは水に溶けて酸となる物質などを使用している多くの職場で発生する
可能性があると考え、対策を講じておく必要があでしょう。

 歯牙酸蝕症の罹患状況

 酸を使用している職場において報告される歯牙酸蝕症の有病率は報告によって
大きく異なり、およそ10%から90%までの幅があります。このように発生
率の幅が広い疾病は他にはあまりありません。多くの報告を考え合わせると、
平均的には20?40%ぐらいの発生率であると思われます。有病率の幅が大
きいのは、各々の職場の状況が異なることに加えて、個人個人の体質の影響も
強く受けているためと思われます。体の中にある臓器は血液などの体液によっ
て恒常性が保たれた状態にあり、間接的にしか外界(環境)の影害を受けないため、
有病率も比較的安定しています。これに対して、口の中にある歯は、皮膚のよ
うに直接的に酸の影響を受けることもあるうえに、唾液に溶けた酸の影響も受
けています。この唾液の性質や、唇の形など、腫々の要因によって歯牙酸蝕症
の発生状況が変化してきます。いずれにしても、酸を使用している職場では、
半数近くの従業員が歯牙酸蝕症に罹患することになります。
また、年齢を見ると20歳代の人に多く、ついで30歳代以上、19歳未満に
なります。職歴では6?10年がもっとも多くなります。ただし、10年以上
の職歴の人や高齢の人の罹患が多くないのは、この人たちの歯は、すでに何ら
かの処置が施されているため、歯牙酸蝕症と診断できないためと考えられてい
ます。

 酸蝕症が発生しやすい歯の部位

 う蝕と歯牙酸蝕症は酸の作用で歯が溶けるという点では、非常に似ています。
しかし、発生しやすい歯の部位をみると、かなりの違いがあります。う蝕は食
事後の汚れがたまりやすい奥歯の溝の中、歯と歯の間に発生しやすくなってい
ます。歯牙酸蝕症は前歯に多く、奥歯にはあまり発生しません。また、上顎よ
りも下顎の歯に多く出現しています。この差は、前歯は酸の蒸気に直接曝され
ること、口の中で酸の溶けた唾液が下の歯にいつも触れていることによって起
こると考えられます。

 歯牙酸蝕症の診断

 歯牙酸蝕症の診断基準については文献により3度分類、4度分類、5度分類と
さまざまであり、まだ統一されたものはありません。日本歯科医師会では表の
ような4度分類(±を含めて5度分類:資料参照)を用いて、歯牙酸蝕症を評価
しています。ただし、これは基本型であって、それぞれの場合に応じてこれを
修飾して着色には「B」を、透明性には「T」をつけるような工夫が行われるこ
ともあります。

 歯牙酸蝕症の治療

 歯牙酸蝕症の治療は、基本的にう蝕の治療と同一の方法で行います。前歯に発
生することが多いので、治療後の審美性が問題とされます。現在は罹患部位を
削り取り、形を整えてから、歯と同色の合成樹脂をつめる治療が一般的に行わ
れます。
 ただし、治療後もそれまでと同様の作業環境が続けば、歯牙酸蝕症が再発する
こともありますので、作業環境の改善による予防が必要なことはいうまでもあ
りません。

 歯牙酸蝕症と労働安全衛生法

 労働安全衛生法は、労働者の人権尊重という理念に基づいて職場における安全
と健康を確保し快適な作業環境の形成を目的として制定された法律です。
労働安全衛生法の第66条第3項では「事業者は、有害な業務で、政令で定め
るものに従事する労働者に対し、労働省令で定めるところにより、歯科医師に
よる健康診断を行わなければならない。」と規定されています。また、労働安全
衛生法施行令の第22条第3項では「法第66条第3項の政令で定める有害な
業務は、塩酸、硝酸、硫酸、亜硫酸、フッ化水素、黄リン、その他歯またはそ
の支持組織に有害な物のガス、蒸気または粉じんを発散する場所における業務
とする。」と定めています。そして、労働安全衛生規則第48条では「事業者は、
令第22条第3項の業務に常時従事する労働者に対し、その雇い入れの際、当
該業務への配置替えの際、及び当該業務についた後6ヶ月以内ごとに1回、定
期に、歯科医師による健康診断を行わなければならない。」としています。つま
り、事業者は酸取扱い業務に従事する従業員に対して、最低でも半年に1回の
歯科健診が義務づけられています。

 おわりに

 今回は事業所に置ける歯の健康管理について歯牙酸蝕症を中心に説明しました。
歯の健康を保つことは、従業員一人一人の健康に役立つばかりでなく、治療の
ための欠勤などの労働損失防止にも役立ちます。事業所全体での歯の健康保持
増進にぜひ取り組んでください。

資料

  歯牙酸蝕症の診断基準
  診 断     症   状
   ±     エナメル質の軽度腐蝕ないしは疑問型
  第1度   欠損がエナメル質内にとどまるもの
  第2度   欠損が象牙質に達したもの
  第3度   欠損が歯髄または歯髄近くにまで及んだもの
  第4度   歯冠部が大きく(およそ2/3以上)欠損したもの